【大炎上】大阪芸大哲学教授が妄言で大炎上

https://news.biglobe.ne.jp/trend/0724/blnews_190724_2479254717.html

はじめに:この件の凶悪犯青葉真司については、

  • 埼玉県生まれ
  • 2012年(30代)にコンビニ強盗で服役
  • 服役後に、身寄りのない人間の入る更生施設に居住
  • さいたま市見沼区のレオパレスで一人暮らし。近隣住民とトラブル。

以上のことしか分かっておらず、出ている情報にはオタク要素が全く見えていません。

京アニへの事件に対しては世界中から声が寄せられ、いかに同社が愛されているのかが分かりますね。

ところが、いい歳をして逆張りをかっこいいと思っているのか、恋人を京アニに奪われたのか、このタイミングで京アニの実績を扱き下ろす輩が現れて炎上(この表現は不適切か?)しています。
それが大阪芸大哲学教授の純丘曜彰
当たり前ですがWEBでも総バッシング、大阪芸大のクチコミも荒れ放題です。

大阪芸大クチコミ

で、憤怒を抑えながら何度読んでも、文章の意味が全く分からないんですよね、これ。
冷静になったら分かるかと思って、今日読み返しても全く意味不明でした。

そんな純丘曜彰の削除済みコラムを、ツッコミを交えながら全文を紹介します。
ポンコツなので、的外れかもしれませんが…

京アニを「麻薬の売人以下」と表現、非公開になった純丘曜彰のコラム(とツッコミ)

/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/

夢の作り手と買い手

東大文学部卒と思えないほど絶望的に国語ができない。
『夢』の定義も無ければ、以後の文で「彼ら」と指す『買い手』も具体的に何を指すのか分からない。
『作り手』も、アニメ制作会社全体なのか、学園祭体験物の作品を作っている会社(というか京アニ)だけなのか、ゲーム会社は違うのか、ラノベ作家は?
イキって書き出すのは良いが、読み手にストレスを与える文章は駄文。

あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。

いつかは起こる

後出しじゃんけんほどみっともない物は無い。
事件以前から警鐘を鳴らしていたならともかく、起きてから「ほらな」という人間なんて誰が評価するだろうか(反語表現)。

クリティカルな連中

夢の作り手と買い手でも述べたが、犯人がオタクかどうかも分かっていないのに、いきなりオタクによる犯行と決めつけ。
「16年の小金井事件」も唐突過ぎる。せめて事件の概要くらい書くべき。
小金井ストーカー殺人未遂事件のことだろうが、三次元に実在するアイドルに対するファンの凶行と「二次元に夢を見ているオタク(かどうかも不明)」による制作会社に対する犯行とは毛色が違う。
この言い方なら、芸能プロダクション、出版社、作家、音楽家、ゲーム制作会社、アミューズメント施設運営者といった「夢を与える職業全て」が被害対象であり、そういったテレビ視聴者、読者、聴衆、ゲームプレイヤー、来場する親子など全てがクリティカルな連中と言っている訳だ。ポンコツゲーマーもクリティカルな連中の一人だ(真顔)。

もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。

そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。

このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。

アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。

にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。

もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。

呪われた夢のようだ(キリッ)

ポンコツゲーマーはアニメに疎いので、手塚プロ瓦解からビューティフルドリーマーに至る経緯は分からないので批判しないが、
「内容が似たり寄ったりの繰り返し」のどこが悪いのか分からない。

古来、文学で言えば起承転結といったスタイルや勧善懲悪というストーリー、美術ではバロック・ロココや浮世絵といった様式、建築でも新古典主義や歴史主義、音楽でもクラシックではバロッや古典派、歌でもロックやブルースがあり、ザ・ビートルズによって確立されたポップスという“ウケる型”というのがある。ゲームも恋愛ものは大体似たり寄ったりだし歴史シミュレーションも舞台を変えるだけで量産されている。RPGのストーリーもそうだしスパロボもそうだ。
エロゲー会社も、ひとつ麻雀ゲームのプログラムを組んでしまえば、定期的にそれを出すと聞く。
文化作品に限らず、「はちみつレモン」「チョコミント」や「ほうじ茶オ・レ」という型のように、成功する方程式が出来上がれば、それがコモディティ化して利益が出なくなるまで続けるのは常識ではないか?
経営者が変わらないことも、別段不思議な話ではない。特に従業員が100人にも満たない会社でコロコロ代表者が変わる方が不思議ではないか?
小規模経営に限らず、本田技研(Honda)の本田宗一郎は1946-1973、晩節を汚したが、ダイエーの中内は1957-1999まで代表をつとめている。
芸術かぶれで世の中を知らなすぎじゃないのかと思う。

なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。

純丘曜彰の“狂気”の真骨頂

ここまで見えない敵と戦える馬鹿純丘曜彰がいつキモオタに対して無差別を犯罪をおかそうと不思議ではないだろう。
勝手に『買い手』のペルソナを作り上げて必死に叩く姿は1周まわって逆に凄いとすら思える。

夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。

そもそも京アニが青葉真司の何かを拒否したのか?
青葉真司が「俺を青春物の主人公にした作品を作れ」などと言って拒否されたならともかく、動機も「NOUNAIで作った作品をパクられた」などと意味不明なもの。
どこに「作り手の領域に踏み込んで」きた要素があるのかも分からない。

以下、さらに駄文。

『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。

起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。

いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。

(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学 などがある。)

結論

純丘曜彰は救いようのない馬鹿