ネットが発達した今こそ、生の声を上げよう

本当に怖いのは 暴力ではなく、それを恐れて 無口になることだ

(出典:2008年毎日新聞社ポスター)

2008年に掲載されたこの広告、単純に解釈すれば「殴られるのが怖くて黙るのは良くない」だが、視野を広げるきっかけになる、実に良い広告である。

黙るのは誰か?

まずは「誰が無口になるのか」。最もシンプルに考えれば本人だろう。殴られたくないからハッキリ物を言わない、間違いを指摘しない。

確かにその通りだが、それは別に本当に怖いことではないだろう。それでだれも傷つかないのなら、それでもいいのかもしれない。

周囲の沈黙

親による子供への虐待事件が後を絶たない。しかもここ数年、特に耳を塞ぎたくなるような痛ましい事件が顕在化している。最も新しいものでは千葉県野田市の心愛ちゃんの事件。他にも目黒の結愛ちゃんの事件など、概要をかいつまむだけでも、その非道に胸が痛くなる。

個人的には、虐待した親は殺人罪として裁かれるべきだと思うが、それはここで語るべきではないので省略する。ここで言いたいのは、こういった児童虐待や弱者虐待について、周囲が黙っていることの怖さだ(野田市の場合、黙っているどころか積極的に情報を売ったわけだが)。

また、学校内でしばしば起きる生徒間のいじめ問題もまた、周囲の沈黙が本当の怖さ(=悲劇的な結果)に繋がる。

「指摘すれば自分が被害に遭う」という考えから、青あざを作って登校する児童や、校内のいじめを看過する教師。「自分がいじめの対象になる」ということを恐れて校内での暴力も見て見ぬふりをするクラスメート。この広告は、そういった歪な社会環境への警鐘を鳴らしていると言えよう。

暴力とは何か

コミュニティ内の精神的暴力

また、「暴力」という言葉が単なる有形力の行使を指すとは限らないだろう。特に群生活を基本とする人間社会においては、殴る蹴るといった単純な有形力の行使よりもむしろ、会社や地域・組織の中で精神的な圧力をかける、無視をする、あるいは村八分にするといった精神的な加虐行為もまた、暴力と言えよう。そして子供の痛ましい虐待と比較できるものではないが、過労死やうつ病の蔓延といった社会問題は精神的暴力の結果と言える。

真に声を上げるべきは…

だが実は、この広告を紹介したときに最も「君たちが声を上げるべきだ」と言いたかったのは、メディアに虐げられてきた人たちと、沖縄の心ある人たちだ。

メディアの暴力

テレビの視聴率、新聞の発行部数ともにWEBの発展とともに軒並み下がっている。これは言うまでもなく、メディアに対する信頼が失墜していることである。

これまで、メディアはほぼ唯一の情報発信者として流行を作成し、世論を形成し、価値観を製造し、事実を創作してきた。そしてその陰には数多の犠牲者が居た。

犯罪被害者や事件事故の遺族は視聴率のために傷口に塩を塗られるだけでなく二次被害に遭うこともあり、災害現場も被災画を欲しがる利己的な報道陣により被害者の増加や流通の停滞、ニュースキャスターによる心無い台詞に傷口を抉られたことも枚挙にいとまがない。

政治家も百の政策より一の失言や、発言の切り取りで印象を曲げられ表舞台から去ったり、それを恐れてメディアに阿る。その被害は政治家個人だけでなく、それらの政策の恩恵に浴し得た国民にも及んできた。

沖縄の反基地活動

そんなメディアが取り上げない、あるいは矮小化して報道するのが沖縄の基地反対派の暴力だ。もはや犯罪と言ってもいい。

車道への座り込みや違法な検問尋問、当たり屋紛いの行動はまだ序の口で、警察官に家族への被害を仄めかす恫喝を行ったりフェンスに剃刀の刃を付着させたり、挙句は航空機への風船など重篤な事故に繋がりかねない。それでも逮捕は氷山の一角、法治国家としてあるまじき無法状態だ。

それでも警官や自衛官は家族を案じて沈黙する。それは仕方がないだろう。だが、そんな今こそ声を上げる方法がある。それがネットだ。

世論はメディアのみが作るに非ず

今、そういったメディアによる被害や沖縄の現状を憂う人たちが少なからず声を上げ始めた。

あるいはサイトやブログで、あるいはSNSで、切り取られた発言の趣旨の紹介や全文を書き起こしたり、メディアの路上駐車や不法侵入を公開したり、沖縄の現状を発信したりしている。

もはや時代は我々一人一人がメディアたること、また一人一人にリテラシーを求めるようになった。

そんな今こそ、暴力に怯え口を閉ざすことをやめ、生の声を出していきたい。

そういえば、この広告を掲載した毎日新聞社もWaiWai問題や系列のTBSが起こした坂本弁護士事件など暴力を振るう側だったような記憶があるが…?